Installation Art
またいつでも会えるよ (2024)
作品形式 :インスタレーション/映像
展示サイズ :H 4000m × W 2000mm × D 3015mm
作品サイズ :スクリーン H 2500mm × W 2000mm × D50m、展示台 H 900mm × W 900mm × D 900mm
素材 :映像(2分ループ)パイプ、Ricoh pj wx4152、iPAD 4台、農業用ポリエチレン、人工芝、造花、時計、 発泡スチロールブロック、土、展示台、ランプ
数年前、自分の誕生日に認知症だった祖父が死んだ。葬式では親族の意向で遺影を使わずに実施した。遺影を使用しないことに驚いたが、実は葬儀で遺影が飾られるようになったのは、写真の技術が普及したここ数十年ほどらしい。遺影といえば、生前に元気だった時の笑顔の写真をフレームの中に入れ飾るという印象が強い。しかし今回は、近い将来に遺影の在り方が変わるかもしれないと思いという期待を込めて一つの提案としてアート作品として遺影を近未来的に残すことにチャレンジした。
①祖母に数週間密着、また近しい人に祖母がよくする行動を聞き、それを実演してもらい映像記録として 残す
②祖母をスキャンし、3D化する
普段通りに動いている祖母を透明のスクリーンに投影することで、いつでも思い出のままの祖母に会いに 行くことができる。私が祖父の葬式で唯一後悔したことは、認知症前の元気な姿を映像記録として残せなかったことである。認知症が悪化してからは施設に入れられ、死ぬ前の数年間はベッドで寝ている姿しか見ていない。そして最後に祖父を見たのは棺桶の中で非常に痩せ細った身体で硬直している姿であった。元気だった頃の祖父のおもかげはそこにはなかったのである。生前の元気な写真は残されているが、祖父の日常的な口癖や行動はほとんど覚えておらず、親や祖母に聞いて「こんな人物だったのだろうか」と脳でイメージを補完することしかできない。しかし、元気な時の姿の映像を残しておけば、記憶から忘れても、またいつでも思い出すことができるようになる。




制作背景
2021年、私は一度熱中症で倒れ救急車に運ばれた事があります。この時に全身の血 管や筋肉の筋などあらゆる神経が最高潮に動いているのを感じ、誰から首と心臓を絞 められている感覚があり、本気でこのまま死ぬかもしれないという体験をしました。しばらく身体が硬直し動かせず病院には6時間居座りました。
これ以来「死」についてよく考えるようになり、自分が高校時代アメリカに留学して た時を思い出しました。留学当時は留学生の受け入れをしている場所がキリスト教系 の高校しかありませんでした。なので私はキリスト教徒ではないので、クラスメイト と話してる時に度々話が噛み合わない事が何度もありました。
例えば、日本では一般的に輪廻天性が信じられているけど、アメリカのキリスト系の 高校に通っていた時は、誰も輪廻転生を信じておらず話が通じなかったことがありま した。そこで人によって死生観があまりにも違いすぎるので、死後の恐怖は宗教による死生 観によって紛らわしている可能性があると推測しました。
人間が唯一平等に与えられてるものは死です。どんなお金持ちでも健康な人でも必ず死にます。人は死に抗えません。人は宗教などを通して死生観を作り上げていますが、死ぬまで本当のことは生きている我々には誰にもわかりません。私はこの事実に 興味を持ちました。なぜなら誰も死んだ後の世界を体験したこともないし、化学的に100%検証されてない未科学の分野なのに、それぞれ独自の死生観があるからです。
新たな遺影の形を提案するプロジェクトへ
私は自分の誕生日に亡くなった祖父を思い出しました。祖父は私が小学校高学年に上がる頃、認知症を発症した。母は認知症を「魂が半分天国へ行っている状態」と表現しており、日に日に祖父の性格を感じさせる言動が失われ、私を思い出せなくなる姿に悲しみを覚えた。死後の世界に祖父が近づいているように感じました。
私が唯一後悔しているのは、認知症を発症する前の元気な姿を映像記録として残せなかったこ とです。認知症が悪化してからは施設に入れられ、死ぬ前の数年間はベッドに寝ている姿しか 見ていない。そして最後に見たのは、棺桶の中で非常に痩せ細り、硬直した祖父の姿だった。 そこには、元気だった頃の祖父の面影はありませんでした。 私はもう祖父の言動を細かく思い出せない。
しかし、このように祖母の元気だった頃の姿を記 録に残せば、いつでもその姿を思い出すことができます。 現在、遺影は写真が一般的だが、私は映像で記録を残すことで、いつでも元気だった祖母に 「会いに行く」ことができると考えている。私が祖母の言動を記録することで、祖母の感情や生きた証を「未来に残す」という行動そのものが、ある種の死生観の具現化かもしれません。 死生観とは、生と死に対する人間の理解や価値観を示すものです。
多くの文化や宗教では、「記憶」や「存在の痕跡を残すこと」が重要視されています。例えば、お墓や遺影は故人を記憶するための象徴であり、儀式や物語はその人が生きた証を未来に伝える手段です。 私が祖母の日常の言動を映像として記録することは、祖母の「生きている時間」とその「存在 そのもの」を未来に残す行為です。これは、ただの記録以上に、祖母の人生そのものを未来に 「つなぐ」行為といえます。そのため、これは私自身が形作る新しい形の「死生観」となりえることに気づきました。